鮎川信夫編『森川義信詩集』(国文社、一九七七年一二月一五日)。昨日に続いてうどん県の文人。大正七年十月十一日、香川県三豊郡粟井村本庄二二五四にて出生、三豊中学、早稲田第二高等学院英文科入学(中退)。鈴木しのぶの筆名で『若草』『蝋人形』に投稿、『LUNA』(後『LE BAL』に改題)に参加して山川章と改め、さらには本名で書くようになる。昭和十六年四月丸亀歩兵連隊入隊、十七年八月十三日、ビルマにて戦病死。二十五に満たない生涯だった。
本書に収録されている作品は中学時代からちゃんと詩になっている。解説で鮎川信夫はこう書いている。
《数は多くはなかったが、詩人としての天稟は疑うべくもなかった。彼と接していて受ける「もろくて、はかない雰囲気」という印象は、極端な口下手とか実務的な面でのある種の無能力とかからくるよりも、こうした初期の詩にみられるような素朴きわまる自然人の無垢な心情を、いつまでも持ちつづけていたことによるのかもしれなかった。》
はっきりいって甘ちゃんな、大正の抒情詩なのだが、テクニックはできている。「雨」の頁をスキャンしてみた。かろうじて読んでもらえると思うが…。
この後(だろう、本書では初出が明記されていないので)、《あまりうまくない萩原朔太郎》からシュルレアリスムの影響も受け、中原中也を感じさせる作もある。それでも晩年には(あまりに早い晩年!)鮎川が《同時代の詩人の作品に心から動かされたという点で、ほとんどはじめての体験》という作品「勾配」(小生はさほどとも思わないけれども)や「廃園」「哀歌」などにおいては、戦後、現代詩と呼ばれるようになる言葉の形がすでにはっきり完成した姿で提示されているように思う。
《彼は、詩と同様、絵も字も彫刻もうまかった。いかなる意味でも努力家ではなかったから、天性というほかはなかった。しかし、どうしてそうなのかということをつきつめれば、ひょっとすると彼の中にひそむ狂気じみたものにぶつかったかもしれない。》(解説=鮎川信夫)
口絵写真より。生家、家族、義信。
田村隆一『若い荒地』(思潮社、一九六八年)より、友人茂木徳重に宛てた森川の手紙。字がうまいと鮎川が言うのがよく分かる。
『森川義信詩集』は古書としても入手しやすく、また『増補森川義信詩集』(国文社、一九九一年)は版元在庫もあるようなのでぜひ紙の本で森川の作品を読んでいただきたい。