『紺青』第三巻第四号(雄鶏社、一九四八年四月一日)「4月映画特集号」。表紙は
菅沼金六による高峰秀子。この時期の雑誌を見つけると必ず目次をチェックする。佐野繁次郎を探すのが第一の目的だが、それだけとは限らない。いろいろひっかかりのある人物の名前を見つけることがある。土曜日に発見したのが花森安治「勉強のつもりではなく」。
『河出夢ムック 文藝別冊 総特集 花森安治 美しい「暮し」の創始者』の著述リストをチェック(文字が小さすぎて残念。改行もないし。これだけが惜しい)。どうやら抜けているようだ。
内容は、忙しくて映画を観る暇もないが、疲れ果てたときなど、映画館に入って気晴らしをしようと思っても、つい衣装や小道具に目がいって休む間がない、といったもの。
《ところが、何となく忙しい日が続いて、すこし体がまいりかけて来たとき、つまり朝、駅で電車を待ちながら生あくびが出て仕方のないときなど、フトながらく映画を見ないなと思い出し、いわばエビオスをのんだりオリザニンを注射したりするような気持で、映画を見にゆくのである。ひるねをするのには映画館が一番いいという友人がいたが、それは暖房冷房の完備した、いまは遠きよき日のこととしても、大体私が映画館へ出むくまでの心境は、それに似かよったものと言っても差支えはない。》
《画面をながめている中に、私の言葉で言えば、煩悩の虫が頭をもたげて来て、あのデザインがどうの、このアクセサリがどうの、と我ながら浅ましい仕儀になって来て、気晴しにも保養にもならなくなってしまうのである。
さすがに、近ごろは少々悟入して来たからめったにしないが、ひところは、気忙しく手当り次第に封筒や名刺のうらなどに、暗やみの中でスケッチまでするという態たらくで、パッと場内が明るくなると、へとへとになっていたものである。》
《さっきロングでちらと見えたウインナ風の蝋燭立が、もう一度現れて来ないかしら、などということばかりが気になり、さてはあの寝椅子をこんどの装釘に使って見ようか、などくだらぬ方へばかり頭がはたらくようになる上に、それとないまぜて、あのエリの線はおもしろいし、日本人向きだ、あの胸の切りかえは、布の経済にもなる、あのスカートの裾廻りは、たっぷり二米はあるな、などと、とつおいつしているのだから、つくづくと情けない。》
戦前の映画館は冷暖房が完備されていたというのは知らなかった。また、映画は装幀の材料探しにもなっていたわけだ。「花森安治の装釘世界」からこの文章が書かれる前あたりの表紙を探してみると、例えば、
大下宇陀兒『凧』など《あの寝椅子をこんどの装釘に使って見ようか》のくだりに呼応するのかな、などと思ってしまう。
この点に関して唐澤平吉さんよりご教示いただいた。《花森のいう「ロココ風の椅子とかランプとか」は、まさに井上友一郎の『寝室の思想』の装釘です。ずいぶん正直に白状したものです。》
寝室の思想 井上友一郎
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