『書物礼讃』第四冊(杉田大学堂書店、一九二六年七月一日)、杉田大学堂書店の住所は京都市三条寺町東入。編輯兼発行人は杉田長太郎。現在、河原町通り三条下る西側にある大学堂書店と同じ古本屋のようである。
大学堂書店
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調べてみると、大正十四年六月創刊〜昭和五年七月まで十一冊出ている。また、ゆまに書房から一九九三年に書誌書目シリーズとして複製版も出ている。この号では明治五年五月の京都新聞から「集書会社基本」としてその設立告条を採録してあるのが珍しいと思った。引き写すのも面倒なのでスキャン。朱点・朱線は旧蔵者によるもの。
集書会社は貸本屋である。ヨーロッパの貸本屋を真似たのであろう。銀一円の会費で入社(会員になる)すれば何時でも閲覧できる。借り出しは書籍代金を預けなければならない。期限までに返却しなければ返却を受け付けない(購入したのと同じになる)。会員にならなくても銭二百文払えば閲覧を許す。この場合の借り出しは期日に応じて見料を取る(もちろん本の代金も預ける)。等々。
明治五年九月には京都府が集書院を設置し(この告条でも触れられている)、その経営が集書会社に任されたが、経営はなかなか難しかったようだ。明治九年に府の直営となり十五年に閉鎖。二十三年に京都府教育会附属図書館の開館に伴ってその蔵書を下付した、ということである。
他にもいろいろ面白い記事が載っている。天鑄生が「校正難」と題して芥川龍之介の『支那游記』に「神代種亮校」と名前が記されていることについて感想を述べているのなど辛辣である。中国の古書にも校勘者の名を付すことがあるが、それは著者が故人の場合のみであって、著者が生存している限りその必要を認めない。なのにわざわざ書いてあるから、よほど有名な校正子だろうと思って読んでみたら、ボロボロと単純な誤植が見つかった。
《書物に氏名を記されたばかりに、この書の世に存する限り、この誤りの主人公であることを、何時までも記憶されるのも、さぞつらいことであろう。》
他に芥川龍之介自身の勘違いも指摘されている。一一三頁の蘇小小の墓を見た記事。
《その中に『この唐代の美人の墓は』云云とある。しかし蘇小小は唐代の美人ではない。六朝の名妓である。六朝陳徐陵の玉台新詠巻十に、銭唐蘇小歌一首として次の詩がある。
妾乗油璧車、郎騎青□馬、
何処結同心、西陵松柏下。
又宋の郭茂倩の楽府詩集巻八十五には、蘇小小歌としてこの詩の外に、唐の李賀、温庭筠、張祜等の擬作を載せ、[略]》
出た! 李賀。たしかに李賀には「蘇小小歌」がある(「蘇小小墓」とするテキストも)。泉鏡花が李賀を愛したと草森紳一は書いているので、芥川のことだからおそらく李賀に通じており、つい唐代と筆が滑ったか。こういうミスを直すのも校正の一部といっていいのだろうが、なかなか容易な技ではない。