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入道雲

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内田百間の「入道雲」が収録されている『北溟』(小山書店、一九三七年一二月二〇日、装幀=谷中安規)。関東大震災の当時、雑司ヶ谷の盲学校の前にあった百間宅の被害はつぎのようなものだった。

《家の者はみんな盲学校の校庭に避難してゐた。家の中の壁が落ちて、二階の上り口は潰れさうだけれど、幸ひ何人も怪我をしなかつた。屋根の瓦がすつかり落ちてしまつた為に、そのお蔭で古い家が潰れずにすんだのであらう。》

「盲学校」は現在の「筑波大学附属視覚特別支援学校」(東京都文京区目白台3)。明治十三年、築地に楽善会訓盲院として開校。文部省の直轄学校「訓盲唖院」となり明治二十年には東京盲唖学校と改称。明治二十三年に小石川指谷町の薬草試植園に移転、さらに明治四十三年に現在地に移転した。井伏鱒二が避難していた戸塚グラウンドこと「安部球場」(現・早稲田大学総合学術情報センター、都電早稲田駅南)から一キロメートルと離れていない。

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百間はちょうど旅に出ようとして人力車の乗っているときに地震に遭遇し、あわてて引き返して来たのだった。

《私はトランクの中に身の廻りの必要な物一式を入れてゐるので、家の者みんなで使つても暫らくは不自由しないであらう。おまけに私のポケツトにはお金が沢山這入つてゐる。家に残した分もまだ使ふひまがなかつたので、その儘ある。どこの家でも昨日の晦日に払ひをした後だから、お金は余りないに違ひない。かう云ふ変事の起こつた際に、偶然何百円と云ふ金を、私ばかりがちやんと手許に持つてゐると云ふ幸運にめぐり会つた。》

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《それから何日かの間が私の一生の全盛時代であつた様な気がする。お金が有り余つて買ふ物がなかつた。》

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《東南の空に湧き上がつた大きな雲の峰が色色の形に変はりながら、段段伸びて行く様であつた。雲の峰かと思つたが、或は煙の塊りかも知れない。塊りの中腹の辺りが渦を巻いてゐるのが見える。汚れた様な黒い色の中に、時時赤味を射す様に思はれた。渦の中に大変な旋風が起こつてゐるらしく思はれた。午後三時を過ぎた頃から、雲だか煙だか解らないその大きな塊りの中から、どろどろと云ふ遠雷の様な音が起こつた。段段に大きくなつて、音が一続きになり、唸る様な響が轟轟と伝はつて来だした。》

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《赤黒い色の中に、ぴかりぴかりと鋭く光る小さな物が飛び交つた。何の物音とも解らずに、ただ独りでに頭の下がる様な恐ろしさであつた。本所深川一帯の火焔が大川縁に吹きつけて、縺れて撚れ上がつてゐるのであるとは知らなかつた。被服厰跡を包んだ焔だの声であつたかと後になつて、その唸る様な響をもう一度耳の底に聞かうとした。私の「長春香」はここから始まるのである。》
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「長春香」は『鶴』(三笠書房、一九三五年二月二二日)に収められている。長野初という百間がドイツ語を教えた女性を追悼した作品である。初は日本女子大を出て帝大初の女子聴講生の一人として社会学科に通っていた。その授業を理解するためにドイツ語を習いたいと野上臼川の紹介で通ってくるようになった。勉強家で素質もよく百間も意外に思うくらい進歩が速かった。彼女の家は本所の石原町にあった。一度よばれて鳥鍋を御馳走になった。初は帝大の聴講を終え、二三年後に婿を迎えて赤ちゃんがぢきに生まれるという話を聞いた。

《間もなく九月一日の大地震と、それに続いた大火が起こり、長野の消息は解らなくなつた。》

余燼の消えない幾日目かに百間は厩橋を渡って本所石原町の焼跡で長野の家を探した。焼死した人人の亡骸がころころと転がっていた。

《焼野原の中に、見当をつけて、長野の家の焼跡に起つた。暑い日が真上から、かんかん照りつけて、汗が両頬をたらたらと流れた。目がくらむ様な気がして、辺りがぼやけて来た時、焼けた灰の上に、瑕もつかずに突つ起つてゐる一輪挿を見つけて、家に持ち帰つて以来、もう十一年過ぎたのである。》

さらに何日かして百間は長野初と書いた幟を背中にかついで石原町の焼跡にふたたび出かけた。そのときは道も大分片付いていた。余震も遠ざかり公孫樹の葉が落ち尽くした頃、宮城道雄や、初を知る学生たちと追悼会を催した。位牌まで突っ込んでしまうとんでもない闇鍋のこっけいが悲しみを深くする。以来、百間は毎年九月一日がくると石原町の長野の家のあった辺りをひと回りして帰ってくることになる。

《長野は小柄の、色の白い、目の澄んだ美人であつた》

やっぱりなあ。
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by sumus_co | 2011-09-11 21:37 | 古書日録
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