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荻窪風土記

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井伏鱒二の描写がマユツバなどと書いてしまったので気になって『荻窪風土記』(新潮社、一九八二年)を手に入れて確認した。問題のエッセイは「関東大震災直後」。書き出し二行目。

《あの日は、夜明け頃に物すごい雨が降りだした。いきなりの土砂降りとなつたものらしい。私はその音で目をさました。雨脚の太さはステッキほどの太さがあるかといふやうで、話に聞く南洋で降るスコールといふのはこんな太い雨ではないかと思つた。》

内田百間の「入道雲」もおなじような始まりである。冒頭から。

《その朝は雲脚の速い空が段段に暗くなつて、叩きつける様な雨が降りだした。降つてゐる間に空が明かるくなつたり、又かぶさつたりした後、まだ降つてゐる儘にその雲が何処かへ行つてしまつたと思はれる様な霽れ方で、急に青空が輝やいて、すがすがしい風が吹き渡つた。》

百間の名文が際立つ。井伏はこれだけの描写に「太」が三度も入っている。イブセは寝業師だ。それはそれとして、井伏の住む下宿(下戸塚で一番古参の古ぼけた)の被害はというと、斜めにのめりかけ、階段が壊れ(といっても上ることはできた)、塗り直したばかりの壁が崩れ落ちていた。同級生だった小島徳弥の住む平屋は柱時計が落ち瓶がくだけた程度だったという。

当日は下宿の新築中の別棟で過し、二日目、三日目は戸塚グラウンドのスタンドで夜を明かした。四日目は下宿にもどったようである。下町の火災が収まった五日目に小石川の兄を訪ねたが、兄のところも大した被害はなかった。鉄道省勤務だった兄の出勤について竹橋まで歩き、そこで兄と別れた。

《竹橋のところにはお濠の水がすつかり乾上がつて、人のむくろがそこかしこに散らばつてゐた。有名な店屋のしるしがついてゐる買物包みをぶら下げて、盛装して倒れてゐる女体が石垣のすぐ真下に横たはつてゐた。目に見える限り、女はすべて仰向けになつてゐる。男はすべて俯伏せになつてゐる。》

「仰向け/俯伏せ」表現はまさに井伏ならでは。そんなはずないのだが、これに似たレトリックを井伏はよく使う。そして下戸塚に戻ると七日に立川から汽車が出るという噂を耳にした。

《「七日と言へば、今日のことではないか。今月今日、東京を退散だ」
 もうお昼すぎになってゐたが、急に思ひ立つたので郷里へ帰ることにした。財布は帯に捩込んで、カンカン帽に日和下駄をはき、下宿のお上や止宿人に私は左様ならをした。》

お昼過ぎに出発した。ところがどこで道草をくったのか、中野駅のガードのところへ着くともう日が暮れかけていた。

《私はガードを渡るのを止して駅に引返し、南口に出て線路沿ひの薯畑の畦道に入つた。もう日が暮れかけてゐた。》

と書かれているのだが、これはどうやら錯誤らしい(《当時の駅は昭和4年までガードの先にあった筈で、引き返しても駅はない》という説がある)。中野駅の近くの農家で一夜の宿を借り、高円寺の光成信男(早稲田の先輩)の家へ行きその夜の夜警に加わった。翌朝すぐに出発し阿佐ヶ谷駅から荻窪駅とたどりつき、線路道を立川まで歩いた。

《てくてく歩け、てくてく歩け、私は実際てくてく歩いて行つた。立川には避難民が乗るのを待つてゐる汽車があつた。駅員が乗客に向かつて、震災で避難する人は乗車券が不要だと言つた。》

この後、塩尻で名古屋行きに乗り換え、名古屋から普通の列車で福山駅に着いた。帰郷して三日目(ということは九月十三、十四日ごろ?)、震災五日目に別れた兄が打った電報が郷里の家に届いた。唐草模様が印刷されたカンカン帽子の底に貼ってある紙片に鉛筆でこう書いてあった。
「マスジブジ」
電報が本人よりもずっと後に届いたというサゲ、これはあり得るだろう。ただし電報用紙のくだりは何かの勘違いではないかと思うのだが。

『大正大震災大火災』より避難民が殺到する品川駅の様子。および場所は不明だが満員列車。十月一日発行なので当然それ以前になろうが、東海道線はまだ復旧していなかったと思われる。例えば墜落した酒匂川橋梁は十月十五日仮復旧。
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by sumus_co | 2011-09-10 22:10 | 古書日録
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