『渡邊一夫画戯集成』(一枚の繪、一九八二年六月一〇日)より。渡邊一夫が自ら彫った印の数々。このところ話題にしている竹の印が右手前に見えている。
《多くのことを次々に思い附き、それをまめに実行に移されていた渡辺先生は、さまざまの印を刻しておられる。
検印に使われたもの、蔵書印として作られたもの、署名と共に色紙などに押されたものなどである。東京高校で教鞭をとられていた頃、丙類の生徒のために教官室の隅に本箱を置き、自由に貸出せるフランス語の本が並べられてあったが、それには木印で、NBと押されていたし、「ふらんす手帖」の奥付のCEFもそうである。
中でも晩年によく使われた「幽幽自擲」は先生らしい印である。これを押して手渡された時の表情が忘れ難い。
先生の印は自由であって、面倒な約束事の多い篆刻とは自から異なるものである。従って先生らしい面白さが伝わってくる。》
と串田孫一が解説している。文中「NB」は「Nota Bene」(注意せよ)だろうが、「CEF」は? Cogito, ergo…facit でもないか。串田自身も自分で彫った自由な篆刻の検印を使っている。しかし《面倒な約束事の多い篆刻》というのは偏見であろう。たとえば先日ご指摘いただいた「青邨」の「青」の下のところを月(肉月)として彫ってはいけない、「丹」でなければ漢字そのものが間違っていることになる、というようなことで面倒な約束事というのとは少し違う。漢字をそれこそ漢時代までさかのぼった形で正しく書くということだ。といっても皆が皆そうしているわけではないが。
たまたまムッシュKさんが「幽幽自擲」印を話題にされている。
「幽幽自擲」ムッシュKの日々の便り
http://monsieurk.exblog.jp/14360824/
『渡邊一夫画戯集成』より渡邊一夫の水彩画「リラの花、いま枯れんとす」に捺されている「幽幽自擲」印。
同じく「幽幽自擲」印のある水彩画「奇跡」。一九六八年、渡辺はパリに滞在しており、学生運動を間近に目撃している。その騒動をモチーフにした作品の内の一枚である。