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九十九谷

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尾崎士郎『九十九谷』(甲鳥書林、一九三九年一二月二〇日、装幀・挿絵=中川一政)。尾崎の短篇集で、京都の甲鳥書林から出たもの(甲鳥書林については拙著『古本デッサン帳』参照)。戦時中にもかかわらず、出来得るかぎりの豪華本にこだわった版元である。

新村出『ちぎれ雲』(甲鳥書林、一九四二年九月二〇日、装幀=木下杢太郎)
http://sumus.exblog.jp/14871404
http://sumus.exblog.jp/6935020

《今日の時勢下にあってこんな手のこんだ、いい本を出してもらふことには少なからず気がひけるが、出版界の現状に伴ふあらゆる困難を押切つてかういふ良心的な態度で仕事をしてゆかうとする人が今日の日本に一人ぐらゐはあつてもいいと思ふ。》

と著者が「後書」に断っているように函も表紙、扉までも和紙に木版摺りの豪華さである。黒岩比佐子さんの『パンとペン』の中でもしばしば引用されていたように尾崎は売文社に拠って国家社会主義に身を投じた時期があったが、昭和八年から『都新聞』に連載した「人生劇場」(挿絵は中川一政、単行本は竹村書房刊)の大ヒットによって一躍流行作家となった。『九十九谷』が出た昭和十四年頃には新潮社をはじめ各社から次々に本を出す売れっ子だったようだ。寄せ集めの短篇集とはいえ、よくぞ甲鳥書林は原稿を取ったものだ。それは本造りにも気合いが入るだろう。

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ここで言う「九十九谷(くじゅうくたに)」は東京都大田区馬込。たしかに起伏の多い土地である。尾崎士郎は大正十二年からここに住み着き、尾崎を慕う文士たちが集まってきたことでも知られる(馬込文士村)。尾崎の旧居は山王草堂(徳富蘇峰の旧居)の近く。小生、洲之内徹について調べていたときに一度このあたりを歩いたことがある。山王草堂はなかなかいい雰囲気だと思ったが、たしか当時はまだ尾崎旧宅は公開されていなかった(現在は記念館になっているようだ)。

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先日も話題にした犬の文学。ここにもありました。「犬の季節」は肴屋がもらったコリイを猫可愛がり(犬可愛がり)する話で、売文社にいた尾崎らしい階級闘争も少し加味された佳作。「野良犬フリッツ」「犬のゐない季節」の二作は姉妹編。著者宅にふくという野良犬が迷い込んで来て、ボス野良黒との間に三匹の子犬を生む。二匹はもらわれ、残った一匹が「フリッツ」。不細工で性格のひねくれたフリッツの恋の物語。

《月のいゝ夜であつた。ーーわたしは酒に酔つて、高原の道をふらふらする足どりで帰つてきた。何か気持ちのうきうきする晩だつた。森のかげが黒くうかんでゐた。わたしは、もう三日以上家をあけてゐたのだ。砂利を敷いた白い道がわたしの眼の前にひろがつてゐる。その時、わたしは視野の果てに、ーーそれは丁度砂利道が断崖によつて遮られてゐるところであるがーー白いゴムまりのやうなものがころころところがつてくるのを見た、フリッツだ! と思つた時しかしこの哀れな犬はわたしの靴にまとひついて、しきりに身体をすりよせるのであつた。
「どうしたんだ、ーーフリッツ! 」
 フリッツが、かういふしなをつくつてじやれついてきたのは始めてだつた。わたしは妙なうす気味わるさをおぼえた。彼のぢやれつきかたは犬が飼主に向つてもつ独特の親しさではなくて、それは心の底にをさめた深い恋情を訴へてゐるかのやうであつたから。その夜、フリッツは庭の中を走りまはつてゐた。深い眠りにはいつたころ、わたしは彼の何時になく疳高い声で吠える声を聞いた。月が出たのであらう。ーーほのかな蒼白さがところどころに光の縞をつくつて、うすい窓のカーテンに沁みてゐた。わたしは、それから、とろとろ眠つたが、しかし荒々しく地面を蹴つて駈けずりまはるフリッツの足音は浅い夢の中に何時までも続いてゐた。その翌日から警察の野犬狩りがはじまつたのである。鑑札を持つてゐないフリッツはすぐに人夫に押へられて大きな箱車の中へなげこまれた。》

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甲鳥書林の検印紙は大ぶりである。この「士郎」の印はちょっとたよりない。

川田順『国初聖蹟歌』奥付
http://sumus.exblog.jp/10734347

中谷宇吉郎『續冬の華』
http://sumus.exblog.jp/5189130
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by sumus_co | 2011-08-18 22:06 | 古書日録
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