『彷書月刊』一九八八年一二月号に串田孫一が「焼跡での怒り」と題した文を寄せている。串田は二度火事で家を焼かれた。関東大震災と東京大空襲である。後者は昭和二十年四月十三日(三月十日、四月十三、十五日、五月二十五日が大規模だった)、当時山形県へ疎開していた串田は、知らせを受けてからも直ぐには東京に戻れず、四月二十五日になってようやく焼跡に立つことができた。
《本の形を若干残している灰が見当ったかも知れないが、もう十日以上も経ち、灰は、溶けて再びかたまった硝子や陶器の破片、金具類と一緒になってしまって何も判らなかった。机も椅子も書棚も、それらしい形をしたものは何もない。》
《ところがそう思って、少し盛上がっている灰を蹴ちらすようなことをしている時、その灰の中から、ジャン・パティスト・ルソーの顔が見えた。鬘をかぶり、少し胸をはだけているその姿は決して幻影ではなく、ランソンの文学史の、詩人としての評価を受けている部分の肖像であった。》
パティストとあるのはおそらく誤植。ルイ十四世に仕えた詩人、劇作家
ジャン・バティスト・ルソー(Jean-Baptiste Rousseau)。
串田には目的があった。万一を考えて地面に埋めさせた《二十数冊の本と帳面》を取り出すためにここへやってきたのだった。それらを石油箱に仕舞い込んで留守番の者に穴を掘って埋めるように頼んでいた。しかしその人は土をかける前にその箱の上にいろいろな品物を詰めて薄く土をかけただけにした。そのため、箱を開けてみると、本は灰になる前の段階で蒸し焼きになっていた。
《そっと取り出すと、風に散り、ところどころに私の鉛筆の書込みが光って見え、辛じてそれが読める状態であった。それはモンテーニュの『旅日記』の余白に書き込んだものであった。
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それを見ながら、急に怒りが込み上げて来た。それは漠然とした戦争への怒りではなく、愚かさに走った人間が何をするかの見極めが出来なかった自分への怒りであった。もう少しはっきり言えば、遅れをとってしまった自分への怒りであった。》
本を疎開させるべく交渉をし、手筈は整っていたが、荷造りを始めたころには輸送ができなくなっていた。
《この悔いと怒りの複雑に絡み合った気持は今も殆ど薄れていない。自分の不手際で焼いてしまった本は全部憶えている。時々、眠れない夜に、それらは瞼にちらちら見えて来て、眠っても夢を見て魘[うなさ]れそうになる。》
これ以前、串田は「本とのつきあいについて」(『人生読本 本』河出書房、一九八〇年)という文章でもっと簡潔にこう書いている。
《自分の不手際からもう運べなくなって焼いてしまったが、しばらくして本の灰をかきまわしたら、厚い辞書のなかほどは燃え切らずに残っていた。》
「焼跡での怒り」にこの辞書のことが出ていないのがちょっと興味をそそる。
写真は、おそらく十年ほども前、ミカン(飼っていた犬)とよく散歩していた河原で拾った本。そこで誰かが焼いたのだろうが、持ち帰ってコンビニでカラーコピーしておいた。いつか装幀の材料に使えるかもしれないと思ったのである。現物はさすがに捨てたが、よく見ると国語辞典、どうやら新明解のある版のようだ。やはり辞典は燃え難い……か。