庄野至『異人さんの讃美歌』(編集工房ノア、二〇一一年二月一五日、装幀=森本良成)。okatakeの日記に「
「サンデー毎日」の取材で、帝塚山の庄野至さんにインタビュー」とあったので。
『海鳴り』22号掲載の「潤三に別れを告げにき飛んできた小鳥たち」など既発表の諸篇と表題になっている書き下ろしの「異人さんの讃美歌」を収録。
例えば「渦森台(うずもりだい)へ」は神戸の地震の発生から、渦森台(神戸市東灘区)に住む娘の家族を心配して歩いて行こうとする道々のできごとを過去の回想をまじえながら描いている。地震のひとつの記録としても貴重か。個人的には巻頭に置かれた「チョッキのおじさん」が好きだ。父親の友人でよく彼らの家に長逗留していたことのある彫刻家「中野のおじさん」について、うまく人物像が浮彫りにされている。そして「異人さんの讃美歌」はその父である庄野貞一の伝記的小説。明治二十年に徳島県の上山(かみやま)村で生れ、大正六年に帝塚山学院の院長になるまでが描かれており、とても読みやすい。モラエスや与謝野鉄幹も登場する。
例によって本書に拠りながら庄野貞一の略歴をまとめておく。
田中貞一は徳島中学を中退し徳島師範を出た後、郷里の上山尋常小学校へ赴任、伊賀町の庄野家の婿養子となる。新町尋常小学校へ転任。文検英語試験に合格し山口県立萩中学の英語教師となる。そこで吉田松陰の実兄・杉民治の孫・杉道助と知り合って、大阪船場の八木商店に勤めていた杉から桃山中学の浅野勇校長を紹介され、桃山中学に勤めることに。さらに杉は、浅野勇、八木商店の八木与三郎、久保田鉄工の久保田権四郎、鉄鋼業の山本藤助らが大阪南郊の帝塚山を開拓して住宅地を開き、その中心に理想的な学校を作るという計画に庄野を誘い、その帝塚山学院の初代校長となる。貞一、三十歳。
『書影でたどる関西の出版100』(創元社、二〇一〇年)には、五年後に庄野が出かけた海外教育視察旅行の記録『十八ヶ国欧米の旅』(高橋南益社、一九二八年、装幀=小出楢重)についての記事も掲載されています(熊田司執筆)。