「銀座「モナミ」における出版記念会」と題された写真。寺下辰夫『郷愁伝』(寸鉄社、一九六二年一〇月二五日)に掲載されているのを最近見つけた。本はかなり前から持っていたのだが、『喫茶店の時代』には使っていないネタだった(忘れていただけという説もある)。
寺下は、関東大震災の後、有島武郎にもらったアーサー・シモンズの「合詩集[ルビ=コレクテツトポエム]」を飜訳した。それが第一訳詩集『緑の挨拶』(交蘭社、一九二七年)として、また雑誌に寄稿した自作の抒情詩を集めたものが『ゆめがたみ』(交蘭社、一九三一年)として出版された。そして、里見弴、有島生馬、吉井勇、日夏耿之介、横光利一、小川未明、山田耕筰、成田為三らが発起人となって『緑の挨拶』の出版記念会が銀座のモナミで開かれたという。
《訳詩集「緑の挨拶」の出版記念会の時の写真=中央がボクで向つて右が、西條八十、堀口大学氏。左が佐々木茂索氏(現文芸春秋新社・社長)その隣は、高橋とよさん、左(故、人見ゆかり)さん。後列は、水谷まさる、佐伯孝夫、西村酔香、翁久允、松井翠声、横山青娥、大黒貞勝、植波有年、渡辺弥一、菅原寛、清水暉吉、林文三郎氏の六十余人が集まつて頂き、盛会だつた。この右側に、まだ半分以上の出席者がいたが、写真に映らなかつたのは惜しかつた。》
モナミ以外にも名古屋のパウリスタについての思い出もあって興味深い。中学三年生の頃(大正八年?)、名古屋広小路栄町に「カフエー・パウリスタ」ができた。寺下によれば十八番目の店舗であるという。
《まだ、三年生になりたての頃で、一人で「カフェ—・パウリスタ」に入ろうものなら、いかにボーイだけが給仕する真面目な店であっても、上級生から「生意気だぞ!」と、それこそビンタの一つでも頂戴するから、はじめは、とても一人で店に入る勇気はなかった。
コーヒー代は、一杯五銭で、そのうえ大きなドウナツが一個、景物についていたのだから、たのしかったものだ。》《とにかく、この一杯のコーヒーを飲んだのが、そもそものコーヒーの味を覚えるはじめとなったわけだが、最初の一杯は、どうも口に苦く感じて、さしてウマイ飲物とは思えなかった。むしろ、ドウナツの方が、印象深かったとおもう。》
これは初田亨『カフエーと喫茶店』(INAX、一九九三年一一月三〇日)の図版より銀座の「モナミ」(出典は『建築画報』一九二八年一月)。
こちらは『喫茶店の時代』に使った東中野のモナミ。ここでも多くの文学者や芸術家たちの会合がもたれた。
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このところ当ブログでは「藤澤清造」や「藤澤清造全集」のキーワードで検索してくる訪問者が多い。西村賢太芥川賞効果のようである。