上田秋成室遺草『夏野の露』(富岡謙三、一八九三年)について書いたところ、杉浦利之編『夭折の大学者 富岡謙三 親交の書簡集(含鉄斎翁書翰三通)』(柳原出版、二〇〇八年三月二〇日)を恵贈いただいた。御礼申し上げます。
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杉浦丘園に宛てられた富岡謙三(謙蔵)および富岡鉄斎の書翰をカラー図版と懇切な解説によって収録した一冊で、たいへん貴重な記録であろう。メモとして漢鏡の研究で知られたという謙三の年譜を要約しておく(主に富岡益太郎編年譜に依るとのこと)。
明治六年(一八七三) 二月十七日、鉄斎の長男として誕生。
明治三十三年(一九〇〇) 中野寿子と結婚。一男三女をもうける。
明治四十一年(一九〇八) 京都帝国大学文科大学講師。
明治四十三年(一九一〇) 調査のために北京へ出張。
明治四十五年(一九一二) 奉天へ出張。
大正五年(一九一六) 寿蘇会を主唱。鉄斎、羅振玉、内藤湖南、狩野君山らが集まる。
大正六年(一九一七) 上海より呉昌碩に依頼していた「富岡百錬」「鉄斎外史」の二印を持ち帰り、鉄斎を喜ばせた。
大正七年(一九一八) 十二月二十三日歿。
杉浦丘園、本名は三郎兵衛、名のりは利挙(としたか)、幼名は雅之助。丘園の他、君雅、雅楽堂とも号した。明治九年洛北修学院生れ。明治二十九年に家督を相続し呉服商大黒屋第十六代(十代目とも)となる。若年より家庭教師の川勝有経によって考古癖を養われた。法衣商富岡家と杉浦家は石田梅巌の石門心学によって結ばれていた。富岡謙三、山本行範、猪熊浅麻呂らととくに親しく交わった。坪井正五郎の東京人類学会に結成当初より入会。在銘遺物、古瓦、看板、板木、鰐口、石塔、糸印、双六、絵馬、書籍、雑誌、新聞など手当たりしだいに蒐集したという。『雲泉荘山誌』等の出版物も少なくない(以上は『史迹と美術』二八四号「丘園随想」の転載を要約)。昭和三十三年歿。
これは明治三十八年三月十三日消印の謙三からの葉書。「糸印」(明代、生糸の取引に用いられた銅印、漢字ではなく記号らしい)を手に入れたことを朱書している。
最初に掲げた写真絵葉書は明治四十二年五月十二日の消印で、淡路島の岩屋から送られている。写っている建物は「江埼燈台」。小生もここを二度ほど訪れてスケッチをしたことがある。さほど高くない崖の上に建つのだが、明石海峡(および大橋)を一望できる絶好のスポット。イギリス人の設計によって明治四年に初点灯した貴重な灯台である。阪神淡路の大震災で、すぐ横を例の活断層が通っていたため、大きな被害を受けたもよう。そのため絵葉書左手に写っている建物は別の場所へ移築された。灯台は修復されて真白に塗られている。
小さいですが、江埼灯台を描いた作品が下記に(中段の写真、左端)。
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江埼灯台(えさきとうだい)
http://ja.wikipedia.org/wiki/江埼灯台