十四日に紹介した
藤田嗣治『巴里の横顔』(実業之日本社、一九二九年五版)からカラー口絵の一点。タイトルはついていないが、「私の部屋、アコーディオンのある静物」(一九二二作。題名は別の呼び方もあるようだが『藤田嗣治展』図録、二〇〇六年による)として知られる作品。「私の部屋、目覚まし時計のある静物」(一九二一作)などとともに作者自身によって一九五一年、パリ国立近代美術館に寄贈されている。小生も同美術館で実物を見た記憶があるが、藤田としてはもっともいい時代の作品だろう。
背後の壁にかかっているのはエピナール版画の「人生の階段 DEGRÉS DES ÂGES」。丁寧に複写している。エピナールはフランス北東部モーゼル川流域の小さな町。十八世紀中頃から大量に生産されていた民衆版画はフランス革命後になると急に衰微した。ただ一ケ所、生き残ったのがエピナールの業者で「エピナール」は十九世紀の民衆版画の代名詞となった。
この画面では読めないが、藤田は「DÉGRÉS」とEのアクサンを間違えている。「DEGRÉS」(ドゥグレ)が正しい。ただこれだけ細かく描いているのだから元の版画がそういうつづりだったのかもしれない。この時代、パリの日本人でこんな民衆版画に目を向けていた者が何人いたろうか。このセンスは抜群と思う。
《私は向ふに着くといきなり丁度ホーブと申します野獣のような絵描きの集つて居るモンパルナスと云ふ町に着いた為、直ぐ其群に入つてしまいました。》
《所が私は恥しいことには其時分セザンヌ、ルノアールを知らない、無論ゴッホ、ゴーガンの名前さへ知らないで、いきなりピカソの家に行つたのであります。ピカソは私にアンリールツソーの絵を見せた、今日ではさうは思ひませぬが、その時は私の見たこともない絵で驚いて見ました》
《ピカソは其時分未来派、立体派を描いて居りまして、ヴイオリンとかギターを鋸で切つてそれを壁に張付けて、実際に実物を研究して居る時代でありました、それから横に大きな部屋があつて、其処に黒ん坊のコレクシヨンを沢山持つて居つてそれを作品に応用して居りました》
『藤田嗣治展』図録によれば、藤田がパリに着いたのは一九一三年八月。ピカソやリベラのアトリエを訪ねたのは一九一四年の二月頃で、いきなりフォーヴの洗礼を受けたわけではなかった。まずはルーブル美術館でギリシャ美術を研究したようだ。しかしピカソたちの作品からショックを受けたのは事実のようで立体派をまねた絵が残っている(上記図録に掲載)。ピカソが一九一四年の初め頃に制作していたのはこういうコラージュ(パピエ・コレ)の要素の強い作品だった。
フォーヴや立体派の影響よりもピカソのアトリエで見せられたというアンリ・ルソーの「夫人の像」の方が後々まで藤田の好みにも合ったのか長く画風に影を落としているように思われる。先のエピナール版画といいルソーといい素朴な世界が藤田の本質だった。