山本沖子『詩集 花の木の椅子』(創元社、一九四七年三月一五日、装幀=庫田叕)。
ごく最近、金関寿夫が『図書新聞』一九七八年に連載した「『世界文学』と京都リトル・ルネサンス」という記事のコピーを某氏より頂戴した。これは
『世界文学』と柴野方彦そして京都の出版についてのたいへん貴重な記録である。むろん淀野隆三も登場する。ゆっくり読んでいずれ面白そうなエピソードなど披露してみたい。
本日はそのなかで「山本沖子のデビュー」についての部分を少し紹介する。三好達治は三高出身で柴野や淀野らとも親しい間柄だったため戦後京都の出版界には欠かせない存在だったが、その
《三好氏が推薦された詩人、山本沖子さんの初舞台がほかでもない『世界文学』の第三号(一九四六年七月)であった。「山本沖子の詩を世に出したのは、『世界文学』の功績の一つですよ」、とこの間柴野氏に言われて、私はそのことを急に思い出した。》
その三好が『世界文学』に書いた紹介文にはこうある。
《山本沖子君は若狭国小浜の人。…戦争中ずつと近在の某鉱山に事務をとつてゐられたかたはら、当時越前坂井郡に引越してきた私のもとへ手紙を寄せられまた作品を示された。》
三好は稚拙とも見える清純さをいたく気に入り、まず『新潮』の顧問をしていた河盛好蔵に送ったが、返された。次に鎌倉文庫の『人間』編集長木村徳三に見せたが、やはり返されて憤慨した。三度目に『世界文学』の編集長だった伊吹武彦がその清新さを認めて掲載したのだという。
表題作「花の木の椅子」全文。
紅い花の咲く
大きな木は
椅子のやうにできてゐます
小さい子供が
鈴のやうに
花の木の椅子にのぼつて
あそんでゐます
日がくれて
子供がかへるころ
私も一人で
花の木の椅子にこしかけます
ここからは海がみえます
なつかしいおともだちよ
ここから私はあなたを呼びます
月がでるまで私はここで
深いことを夢みてゐたく思ひます
善し悪しは別にして戦後詩のいずれの枠にもこういう作風は納まらないだろうということだけは詩壇に暗い小生でも想像はできる。夢二やスミカズの挿絵が似合いそうな雰囲気もある。そればかりではない戦時下の様子も描かれてはいるものの、きわめてさらりと扱っており、無知とも老練とも思われる筆つきだ。金子みすヾが評価される時代になってやっと居場所が見つかったというような気もする、うわべだけのことで言えば。
一九七七年に弥生書房が同名詩集(増補)を出し、その後も詩集は五冊ほど刊行されているようだ。近作は『鬼灯・りんご・さくら』(書肆青樹社、二〇〇七年)。