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パンの耳

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天野忠『重たい手』(第一藝文社、一九五四年)。『関西の出版100』のための図版から(こちらはただいま創元社にて最終校正中)。

KYOさんより荒賀憲雄「路地の奥の小さな宇宙ーー天野忠襍記」(『RAVINE』連載)のコピー製本を頂戴した。天野忠を知る上では欠かせない文献のひとつと言えよう。深謝です。

その冒頭に「クラスト忌」という言葉が出ている。一九九三年十月二十八日に天野は歿した。その忌日をこう呼ぼうと本家勇が提案したそうだ。

クラストは天野の代表作『動物園の珍しい動物』(文童社、一九六六年)の序文に登場する架空の詩人の名前である。それによればクラストとは《crust 固いパンの片れ、あれである、つまりパンの耳という奴。あの誰もが敬遠する……》(序文)であり、荒賀氏はこの表現を梃にして天野が使った「パンの耳」という語をその詩篇群から探し出している。まず『重たい手』に収録されている「配置」(引用は部分)。

 エプロンの下から 金を出した
 あの金は一昨日 私に支払われた
 パンの耳を噛じりながら
 このポストで 私はそれを算えた

また「何たる不覚」(『しずかな人 しずかな部分』第一芸文社、一九六三年)に

 今朝 僕は味噌汁の中にパンの耳を浸した

と出ているそうだ。そしてこの「パンの耳」という語は天野忠の中期の「庶民性」を代表する重要な詩語として扱われ今日にいたっているとし、ただし、

《もとよりその語の語るような生活実態は作者の日常に見られるものではなかったにせよ、作者はこのことばに固執せざるをえなかった。それは、とりわけこの時期を特徴づける「庶民性」という詩的位置を形造るに、最もふさわしい一語だったからであろう。
 ことばの担う運命というのは、そのようなものなのである。》

と書いている。天野忠が庶民的な作風を装った時代は、美術家もそうだが、みんな社会主義の風を受けていたような気がする。戦前のモダニズムの作風といい、天野は時代に敏感に反応する詩人のようである。

ちなみにパンの耳は白いところよりもカロリーが高い(水分が少ないので必然的にそうなる)。ということは腹持ちもいいわけで、しかもとびきり安いとくれば、もうこれは「庶民」というよりも「貧民」の味方ではないだろうか。パン好きに言わせれば、ほんとうにおいしいパンは耳もおいしいと(当り前?)。

荒賀氏の記述にひとつ補足する。天野忠「最後の家族」(『重たい手』)冒頭。

 私が生まれたとき
 小さな地震があった
 母の顔にはいつも星の形をした
 小さな黒い膏薬が貼ってあった

この膏薬を氏は《「死の方へ生長」し続けている我々の運命(星)にほかならない。作者はそれを、生活に疲れた庶民の、頭痛病みの女性などがよくこめかみに張り付けていた膏薬(「黒い」はずはなかろうが)に表象する》と解釈している。解釈に異論をはさむつもりはないが、《「黒い」はずはなかろうが》は思い込みで、黒い膏薬は存在する。

あと、もうひとつ注目したのは『動物園の珍しい動物』がデヴィッド・ガーネットからヒントを得たと書かれていること。

《表紙の狐の絵がいかにも気になったので、この点を先生にたずねたところ、「『狐になった夫人』や」とおっしゃったことがあり、このあたりガーネットの原典に当ったことのない私には見当がつきません。》(「パンの耳」をめぐって)

ガーネット(DAVID GARNETT)の『LADY INTO FOX』は邦訳されて文庫にもなっているし、原文は下記で読むことができる。挿絵付き。
 
http://www.gutenberg.org/files/10337/10337-h/10337-h.htm

『狐になった夫人』というタイトルは井上宗次訳(新潮文庫、一九五五年)である。さすれば天野はそれを読んだのだろうか。他に『狐になつた奥様』(新月社、一九四八年)もあり、没後になるが、『狐になった人妻』(ガーネット傑作集. 1、河出書房新社、二〇〇四年)、『狐になった奥様』(岩波文庫、二〇〇七年)という訳もある。
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by sumus_co | 2010-05-31 19:58 | 古書日録
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