細川書店版『現代日本美術全集1岸田劉生集』(一九五四年三月一日)。このシリーズの刊行予定は岸田劉生、萬鉄五郎、小出楢重、安井曾太郎、梅原龍三郎、藤田嗣治、中川一政、林武、宮本三郎、三岸節子、恩地孝四郎、棟方志功。実際に出たのは岸田劉生集と萬鉄五郎集(一九五四年四月一日)だけのようである。
そしてまた曾根博義『岡本芳雄』(エディトリアルデザイン研究所、一九九七年一二月一〇日)によれば《実質的に倒産状態だった》細川書店が最後に出版したのが二冊の『現代日本美術全集』だったらしい。
挟み込まれている大判の「細川だより」(タテ210mm、ヨコ175mm)にこうある。
《久しく沈黙していた間に、たびたび寄せられた諸兄の激励のことばに、やつとお応え出来たのが何よりのよろこびです》
曾根氏の書目によれば昭和二十七年(一九五二)十一月から刊行物がない。この岸田劉生集は岸田麗子が編集し作品解説にも筆をとっていて、それがまたたいへん面白い。例えば上の椿の絵について。
《椿の花は、よそ目にはまだ水々[ママ]しいうちにも、自身の重みでポトリと落ちるものです。父が描きかけて油ののつてゐる時に花が落ち、父がかんしやく[五字傍点]をおこすのを、母が一生懸命なだめながら、袖を口にくはへて中腰になり、針で花を枝に止めてゐたのをおぼへてゐます。花がもとどほり枝にしつかりついたのを見て、父は母に感謝して喜びました。母は決して器用な人ではありませんが、かういふ時には母も一生懸命でした。》
小生も花を描いていたころにはこういうことをしょっちゅうやっていたが、劉生はまるで利かん坊のようで、それをまた妻子がハラハラしながら眺めているというのも不思議な光景ではないだろうか。自分でもやっていながら、劉生もそうだったと知ったとたん、この椿の絵の見え方が少し変ってくるような気がするから人間の感覚ほど当てにならないものはない。
また「細川だより」にはその頃の駐日イタリヤ大使が数寄屋橋付近の画廊(おそらく日動画廊)でウィンドウの岸田劉生に目を留め、気に入って作品を集め出したと書いてある。
《今では数十点という作品を手に入れたそうです。帰国すれば、大使自ら、イタリヤで岸田劉生展を開くといつています》
当時のイタリア大使が誰なのか、検索しても分からなかった。《1959年4月、駐日イタリア大使マウリリオ・コッピーニ氏が入洛し高山京都市長と懇談、姉妹都市の話が芽生えた》という記事が見つかっただけ。