大岡信『芸術と伝統』(晶文社、一九六三年、装幀=駒井哲郎)。この写真を見ていただきたい。函と表紙のタイトルの位置。逆になっている、いや同じ面にある。これについては編集を担当した小野二郎が「失敗談」を打ち明けている。
著者の大岡とともに駒井哲郎宅を訪ねて装幀案と原画の銅版画を受取った。そして酒宴になった。駒井がつぎつぎと取り出してくる愛用のぐいのみの清楚な美しさに小野は打たれた。
《おかげで今日まで気に入ったぐいのみが一つもない。こんな具合で、何か幸福な気持で造本にとりかかったのであるが、出来上って仰天した。函の書名著者名が裏側にある!》(『芸術マイナス1』の1、引用は『大きな顔』小野二郎年譜より)
まあ、こんな失敗はよくあることだ。まだ平野甲賀が小野の手付きを見かねて装幀を手伝い始める前の話である。小野も三十三、四歳で編集者としての経験もそう長いものではなかった。
いちおう中味もちょっとは読んでみるかと文字を眺めると「戦争前夜のモダニズム—「新領土」を中心にー」というエッセイがあった。かいつまんで言うと、昭和初期のモダニズムと保田与重郎を中心とする日本主義を《これら二つの文学的傾向は、現実拒否の態度において、本質的には決してかけ離れてはいなかった》ということが述べられている。
これは今となってはごく自然な推論だが、この論考の発表された時期としてはかなり頑張ったものだったかも知れない(よく知らないが)。両方の流れはともに戦後ほとんど省みられなくなっていた時期だろう。しかも永田助太郎を異色として評価(たぶん評価しているのだろう、そのあたりも控え目だ)している部分はとくに注目に値する。
《沈黙以外に到達の方法がないようにみえるところへ、彼は饒舌のはてしない連続によって到達しようとした。必然的に、彼の行為全体が悲壮な道化を思わせることになった。しかし実はそれはどうでもいいことである。ぼくにとって重要に思われるのは、ここでもまた、歴史の容器の外側へ逃れ出ようとするロマン主義的欲求が、極度に激しい形において見られるという事実である。》
この《ロマン主義的欲求》をモダニストに見てとり、だから日本浪漫派と同じ穴のムジナだと言いたいようだ。しかし多分、ぼく(大岡)にとって《どうでもいいこと》こそ最も大事なことなのではないだろうか。いずれにせよ、ここで永田助太郎が論じられたことに意味があるのは間違いない。