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地獄変芥川龍之介『地獄変』(文藝春秋社出版部、一九二六年二月一〇日五版)。新書サイズ(巻末には袖珍とある)。「地獄変」「きりしとほろ上人伝」「枯野抄」「竜」「首が落ちた話」「蜜柑と沼地」が収められている。ある古本屋の隅にポンと置かれていた。値段がついていなかった。尋ねてみると、店番のおばさんは「値段ありませんかあ?」とちょっと当惑気味だったが、 「いくらならよろしですか?」 と臨機応変なお答え。 「三百円でどうでしょう」 「背が割れてもうて……それでええですか」 「けっこうです」 ということで入手。 「古本屋が本の値段知らんいうて、なさけない話ですわ」 「いえいえ、そんなことないですよ(これ珍しい本です)」 今調べてみると大正十年(一九二一)に春陽堂ヴエストポケツト傑作叢書として同じラインナップの作品集が出ている(今現在、春陽堂版は「日本の古本屋」に二冊出ているが、文藝春秋社版は見当たらない)。 二篇セットの「蜜柑と沼地」のうち「泥沼」は絵の話。ロマン派的な暗い短篇である。話者は展覧会で小さな油絵一枚を見付けて釘付けになる(この小品を旧漢字旧仮名でアップしておられる方がおられたので一部をコピーさせてもらう)。 《不思議な事にこの畫家は、蓊鬱(おううつ)たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を使つてゐない。蘆や白楊(ポプラア)や無花果(いちぢく)を彩(いろど)るものは、どこを見ても濁つた黄色である。まるで濡れた壁土(かべつち)のやうな、重苦しい黄色である。この畫家には草木の色が實際さう見えたのであらうか。それとも別に好む所があつて、故意(ことさら)こんな誇張を加へたのであらうか。》 《しかしその畫の中に恐しい力が潛(ひそ)んでゐる事は、見てゐるに從つて分つて來た。殊に前景の土の如きは、そこを踏む時の足の心もちまでもまざまざと感じさせる程、それ程的確に描いてあつた。踏むとぶすりと音をさせて踝(くるぶし)が隱れるやうな、滑な淤泥(をでい)の心もちである。私はこの小さな油畫の中に、鋭く自然を摑(つか)まうとしてゐる、傷(いたま)しい藝術家の姿を見出した。さうしてあらゆる優れた藝術品から受ける樣に、この黄いろい沼地の草木からも恍惚たる悲壯の感激を受けた。》 そしてこの絵を描いた無名の画家はもう死んでいて、その上、気が違っていたということを通りがかりの美術記者から教えられる。 《これが無名の藝術家が――我々の一人が、その生命を犧牲にして僅に世間から購(あがな)ひ得た唯一の報酬だつたのである。私は全身に異樣な戰慄を感じて、三度この憂鬱な油畫を覗いて見た。そこにはうす暗い空と水との間に、濡れた黄土(おうど)の色をした蘆が、白楊(ポプラア)が、無花果(いちぢく)が、自然それ自身を見るやうな凄(すさま)じい勢で生きてゐる。…………… 「傑作です。」 私は記者の顏をまともに見つめながら、昂然としてかう繰返した。》 芥川はこの絵において具体的にどんな画家をイメージしたのだろうか。ちょっと読んだときは岸田劉生の草土社かとも思ったが、そうとばかりは言えないかもしれない。ゴッホであってもいいかもしれない。蘆と無花果とポプラという取り合わせも意味ありげではある。まあ、おそらく芥川の内面の風景なのだろうが。
by sumus_co
| 2009-11-28 21:24
| 古書日録
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