平野威馬雄『銀座の詩情1』(白川書院、一九六六年一月一日)、『銀座の詩情2』(白川書院、一九六六年八月一日)。三冊が予定されていたようだが、二冊しか出ていない。
十月末日をもって店舗での営業を終了した文庫堂、閉店の少し前に表で購入。
銀座煉瓦街の建設の話が名調子。面白く書けている。銀座通りの幅(十五間)を決めたのは西郷隆盛だそうだ。明治五年の大火をきっかけに計画が策定され、京橋河畔から新橋汐留にいたる450棟1438戸の西洋館が明治十年に完成したという。
工事に反対する住民も多く、デモが起ったりした。反対運動の先頭に立っていた笠原五郎兵衛は「煉瓦のバカヤロー」と絶叫して正気を失ったというし、逆上して自殺した者までいた。まあ、いくら焼けたからといってロンドンのリージェント・ストリートをそこに再現しようというのだから、抵抗もあって当然だ。もし今、銀座通りの両側をすべて江戸時代の街並にもどすというようなエコ計画が持ち上がったとして、いったいどれだけの住人が賛成するだろうか。
完成してからもしばらくは入居者がいなかったらしいが、新聞社などがあつまってくることによって徐々に人工の街・銀座もにぎわっていった。発展とともに煉瓦建築も姿を変え、あるいは消えてゆく。決定的だったのは関東大震災。これで壊滅した。火事には強かったとしても地震には弱かった。
《ある関係者に聞くと、震災後の銀座のゴミは品川の海へ投棄したといい、また戦災後、丸ビルを枡にして八杯分とかあったという、あのへんの塵芥は、それを使って三十間堀を埋めたという》
ウィキによれば《長い間煉瓦街の遺構は全く残っていないとされていたが、工事現場から煉瓦壁の一部が発掘されており、これも江戸東京博物館に展示されている》そうである。
佐野繁次郎の表紙『銀座百点』130号(一九六五年九月号、集成91頁)が掲載されていた。