小笠原秋声+森雪羊+山下錦江共編『大正句選』(山下東陽堂、一九一六年一月一〇日再版)。口絵は篠原淡葉。表紙もおそらく同じ画家だろう。編者はいずれも無名のようだ。ただ、山下錦江には『錦江句集』(おほとり俳壇社、一九五六年)がある。
序文は小泉迂外が筆を執る。
《ことし、御盛儀の折から、いろは会同人相議りて、この集を出す。蓋し俳人として曠世の大典を紀念すべき恰当の美挙なるべし。
おもふに、明治以降、新俳家勃興の時より、句集の出版は歳々頻々として行はれ、今やまつたくその要をみとめざるに至れり。さりながら、従来汎く版行にかゝるものは、題名こそ異なれ、専ら虚子氏或は碧梧桐氏を中心とせる、所謂日本派一まきの俳句集にして、其の趣味、好尚を異にせる我等遊俳家連中とは、あまりにそれ等の句集類が没交渉なるを憾らまずんばあるべからず。》
日付は大正四年十一月十日。『大正句選』の初版は同年十二月である。《御盛儀》は同日十一月十日に京都御所で挙行された大正天皇の即位を指す。このとき長寿者に下賜金があったが、百歳以上の者が全国に626人いたそうである。この数字は平成元年に3,078人となり、そして平成二十年にはなんと36,276人になった。大正四年の人口を五千万強として考えると、総人口は二倍余になって、百歳以上人口は五十八倍である。
小泉迂外は東京本所に明治十七年に生まれ、十七歳頃から伊藤松宇に俳諧を学んだ。松宇は安政六年信濃生まれ。上京して勉学の後、渋沢栄一の知遇を得、王子製紙、渋沢倉庫の支配人を勤めた。俳句では芭蕉の元禄に立ち戻ることを目標とし、一時は正岡子規とともに俳誌『俳諧』を創刊したりしたが、子規とは離れて古俳書の研究や連句の実作にうちこんだ。晩年は関口町の芭蕉庵に住み、収集した古俳書は松宇文庫としてそこに保存されているという。迂外の言葉には松宇に学んだという自負がうかがえるように思う。ただし収録されている俳句はあたりまえながら旧派。例えば先日言及した「焚火」の題には二句見えている。
風下の顔むづかしき焚火かな 梅荘
朝市や焚火取り巻く頰冠り 杉葉
坂崎重盛『神保町「二階世界」巡り及ビ其ノ他』の「焚火」コーナーには秀句がずらりと集められているので、いくつか抜いてみるとこんな感じ。『大正句選』と較べると虚子のニューウェーヴが引き立つ。
風さつと焚火の柱少し折れ 高浜虚子
焚火かなし消えんとすれば育てられ 高浜虚子
他にもいろいろ好きな句がある。
捨てし身や焚火にかざす裏表 川端茅舎
わがからだ焚火にうらおもてあぶる 尾崎放哉
野焚火の四五人に空落ちかかる 臼田亜浪
破れざる者歳月に火を焚けり 角川春樹
一人退き二人よりくる焚火かな 久保田万太郎
万太郎はさすが。焚火だけのことではないのかもしれない。
÷
「読む人スケッチ展」の初日に合わせて上京する予定である。19日夜には岡崎さんが招いてくれてコクテイルでトークをさせてもらう。お近くの方はぜひお越しください。