『彷書月刊』10月号は特集・草森紳一の右手。特集はすべて草森の原稿と校正紙、メモ類など。この写真は一九七七年頃、撮影者不明。巻頭には「枡目の呪縛ーー原稿用紙の中の書の世界」が再録されている(初出は一九八九年)。そこにちょっと気になる記述があった。
《原稿用紙の枡目の出現は、おそらく印刷術と大きくかかわっている。萩の勤皇僧月性の発明ともきくが、彼は自らの塾「清狂草堂」で出版もやった位だから、活字が拾いやすいようにという配慮から、枡目のある原稿用紙を作るに至ったのだろう。「縦二十字」の決定には、書き手の視覚や呼吸、腕の長さまでも、それなりに計算されているはずである。》
たしかに月性が編纂した『今世名家文鈔』(河内屋忠七等)は二十字詰めの版面になっている(国会図書館の近代デジタルライブラリーでネット閲覧可)。しかしそれは木活字版ではなく整版のように見える。整版なら一枚板から掘り出すので活字ではない。《活字が拾いやすいように》というのは何を指しているのか?
また《書き手の視覚や呼吸、腕の長さまでも、それなりに計算されているはず》という説だが、原稿用紙の二十字というのは書き手のことを考えてではなく、いみじくも草森が指摘しているように「活字を拾う」ことから生まれたシステムのようである。そう説くのは松本八郎「四百字詰原稿用紙の話」(初出は一九八四年)。
《日本の活版印刷の黎明期、本文組版は五号活字が基本であった。この五号活字を文選箱に拾って持ち得る重さが八百本、すなわち文選箱は20本×40本というスケールの箱であった。その採字した箱を積み上げれば活字の消費本数が何本という数が出て、筆で書かれた文字数不明の原稿は、たちどころに印刷代が見積もれたという。
そこで、あらかじめ原稿の段階で原価計算できるようにするには、この文選箱での本数と同じ文字数で書かれていれば問題はない。八百字では書きにくいということと、書き損じの時の手間などが考慮され、半分の四百字としたのが、そもそも四百字詰原稿用紙の始まりである。》
文選の作業からコスト計算を含んだ文字数決定によって四百字が生まれた。なお、松本氏によれば
《江戸中期に藤原貞幹が20字×10行の原稿用紙を使って『好古日録』を書いたといわれており、このほか江戸期の原稿にいくつか用いられた例はある。ただこの時代に何のために原稿用紙を使う必要があったのか、これは今ちょっとわからない》
そうだが、それは月性の例ではっきりしている。版面と同じ字数行数で原稿をつくるためだろう。やはりコストとも関係してくる。
草森紳一『荷風の永代橋』(青土社、二〇〇四年)の右が原稿、左が校正紙。それにしても原稿はともかく校正紙はひどいものだ。ここまで直すということは原稿がまったく推敲されていないということではないのか。それを原稿として提出するのがまず疑問である。ここまで直すと元より良くなっているのかどうかすら自分でも判断できないように思うのだが……。